韓流と華流・・・・あまり韓流ドラマとか華流ドラマ?は見ないんですが、ポッと浮かぶのは、中川家の「ソウルの焼肉屋さん」 「いかつい人に絡まれた時の対処法」とw、劇団ひとり氏のネタですw 映画「少林サッカー」は大好きですね。これは衝撃的でしたw CGは勿論のことですが、あの「突き抜けた」感じはw、クレージーキャッツの「無責任」シリーズと共通するものを感じますw 仕事等で大分を訪れることが多いんですが、最近大分の観光地等で、東アジアの近隣諸国から来られている 外国人観光客をよく見かけます。 昨年、仕事で都城のビジネスホテルに泊まった際も、東アジア系外国人を見かけて、びっくりしたことがあります。 都城に、外国人の関心を惹くような観光資源なんかあったかな?とw ま、よく分かんないけどw、少しでも外貨を落としてもらえれば有難いな、と思ったもんでしたw 若干服装のセンスが違うので、「外国の人だな」と気付くことが多いですが(時々外れますw)、 喋ってる言葉を聴いて初めて外国人と気づくこともあり、グローバルアパレル企業のせいでw、 東アジアも「均質化」しつつあるのかな~と思ったりしてますw ただ、日本人と同じような服装の人達が仲間同士で喋っているのを遠目に見かけ、言葉がはっきり聴き取れないのに、 「あ、外国の人だ」と気付くこともあり、何が違うんだろう?と以前から不思議に思っていました。 (大分県別府市 海地獄) 先日たまたま嫁女とそういう話をしていて、ふと思い当たったのが、表情、しぐさ、ボディ・ランゲージの違い、です。 ふとした瞬間の表情やしぐさ、ボディ・ランゲージ、そして同じものを見ても微妙に反応が違うのは、 もしかしたら表情(表現)にも「文化コード」(育った、または所属している社会の文化的規範、規律)があるんじゃないか、と。 基本的な喜怒哀楽の感情は、人間ですから当然同じでしょうが、その表現(表情)の大きさ(や長さ)、タイミング(間)が、 どうも地域や国で違うんじゃないか、と。 ベトナム戦争で、アメリカ兵が一般のベトナム人に尋問をする際、ベトナム人が日本でいう「ヤンキー座り」をしていると、 アメリカ兵がイライラして無理矢理立たせたり、自分達と同じ片膝をついた姿勢を強要したという話を、 高校生の頃に本多勝一か開高健の著作で読み、民族や文化によって、「姿勢」の意味、受け止め方が違うんだんな~と 少し驚いた記憶があり。 アメリカに住むことになった人が、恩師から「鏡に映った自分の顔が、ハンバーガーに見えるようになるまで踏ん張れ」 と激励された、という話を若い頃に聞いたことがあって、その激励の意味がやっと解ったような気がします。 周りの人達が、君の表情や反応に違和感を感じないぐらいにならないと、その地域社会には溶け込めない、根差せないよ、 ということかと。 芸人の劇団ひとり氏が、髪を七三に分けて少しキレたりw朗らかな笑顔になるとw、近隣東アジア諸国の人に見えるのは、彼が帰国子女だからじゃないかな、という気もします。 子供の頃、日本社会の外で育ったので、日本社会で育った日本人とは違う表情(の大きさ)やタイミングを持っているんじゃないかと。 じゃあ、中川家の礼二氏はどうなんや?と訊かれそうですがw、あれは、「芸」という感じがしますねw 言語、表情、しぐさの芸w 日本人は、遺伝系統的には大きく6系統に分けられ、「アジアの雑種」とも呼べるそうでw、関西は昔から人の交流が多いので、たまたま礼二氏に大陸的な特徴が色濃く出ている可能性も無い訳ではありませんがw どういう理由にせよ、人の顔のことをあれこれ言うのはw、ちょっと失礼ですねw これは、親からの「躾け」という「文化コード」になりますかw (海地獄の土産屋で見かけたシュールなストラップw) 同じ日本人、同じ九州人でも、お隣の鹿児島には、なんか表情の違いを感じますねw、気合が入っている表情の男性が多いというかw 仕事で滞在した北九州では、コンビニに立ち寄ると、何の仕事をやってるんだかよく分からないw、 ちょっと他所では見かけない種類の薄笑いwを浮かべた若いお兄ちゃんを、ちょこちょこ見かけた記憶もありw 同じ宮崎県民でも、地域によって、しぐさの違いを感じることがありますね。 今住んでいる門川で、時々おばちゃん達が道端で話しているのを見かけますが、県北だな~と感じるのがw、 話が長くなって疲れたのかw、壁にもたれて頬杖をつきながら話す姿勢、しぐさです。 これは、宮崎市周辺や都城ではまず見ない、県北、それも漁師町辺りでしか見かけないしぐさで、 以前冗談交じりで義母にそう話すとw、「漁師町で行儀が悪いっちゃろかね~、他所ではやらんとね?」と 少し恥ずかしそうにしていたのを覚えてますw 県北だけで見かけるということは、その地域社会の中で、祖母、母親、近所のおばちゃん達から娘世代へと引き継がれてきた、 ある程度固有の「民俗」的しぐさ、なんでしょうね。 よく、町には「表情」がある、と言いますが、そこに住む人達に、何らかの背景、「文化コード」を伴った表情が、 どうもあるように感じます。 「文化コード」と強く関係することだと思いますが、日本は「同調圧力」が強い社会と言われたりします。 この「同調圧力」、考え方や思想の強要というよりは「行動」の強要、「私も同じ感じ方をしてますよ」と表情を合わせる、 あるいは「異論はない」ことを表情に出す、のを強いられる圧力、のような気がしますねw 子供の頃、学校や部活等で「なんだその顔は!他の『みんな』は納得してるぞ!」と、 「表情を合わせる」ことを強いられる叱責があったことを思い出しますw 考えていることは全然違うのにw、とりあえず表情だけ合わせておけばw、波風立てずwスムーズに運んでいくというw で、最終的にそれについて誰が責任を取るかというと、「みんなで決めたこと」だから「連帯責任!」にされる場合が 多かったような・・・・w 「無責任社会」の「温床」はw、もしかしたら、この「同調圧力」かもしれませんなw 「我がまま」=「我が思いのまま行動する」と、「自分の行動(と結果)」に「自分で責任を取る」必要が出てきますが、 「我がまま」を通さなければw、その行動は「自分で決めたこと」ではないので、「自分の責任ではない」と思うのが自然ですw この風習の利点はw、自分でものを考えなくても「考える人が考える」ので、ただそれに乗っかって流れに身を任せていれば済むw、 何かあっても自分だけが責任を負わなくてよいw、「みんな」同じ「境遇」なので共感や連帯感が得やすいw、等でしょうかw 「ムラ」社会の名残り、封建時代の庶民の生活の知恵wのような感じもしますがw、江戸時代の百姓は、越訴、一揆、逃散、 町人も打ちこわし等やって「意思表示」してましたからねw 村の管理運営を行っていた「村方(地方)三役」には、名主(庄屋、肝煎)・組頭(年寄り、脇百姓)・百姓代(長百姓)があり、 名主は一村の長で村政を統括し、組頭がその補佐を行い、百姓代は小前百姓を代表して前二者層の村政運営を監視していました。 民俗学者の宮本常一氏がフィールドワークした長崎県対馬の村政運営では、村で何かの事柄を決めるのに、各戸から集まってきて、 経験や言い伝え、それについて思いつくこと等をとにかく出し合い、途中話が脱線したりw昔話に花が咲いたりしながらもw、 皆が納得するまで話し合って決めたそうです。なかなか決まらない場合、時によっては一週間近くも弁当を持ち寄って話し合ったとかw ただ、ここまで話し合って決めたことは、後から不平不満が出ることはまず無かったそうで、「多数決」で決めるのは本当に最後の手段、 という認識だったそうです。 また、日本近世史・村落史が専攻の渡辺尚志氏の研究では、地域性はありますが江戸時代は今想像する以上の「訴訟社会」だったそうで、 こういう「同調圧力」が「全国」的に強くなったのはw、もしかしたら近代以降、「近代国民国家」の国民の「統治方法」の影響等が かなり大きい気もし・・・・w 野村克也氏が、「考え方を変えることで行動を変えていくやり方は、意志を継続させるのがなかなか凡人には難しい。 それよりも、行動を変えることで考え方は変わるので、まず行動を変える方が凡人にはやさしい」と語っていました。 これは、「行動の同調」が「思考の同調」にも繋がる、ということであり、悪用されると怖いことでもあります。 ブラック企業の社員教育の手口は、これを応用したものと言えるかもしれません。 まず、理由は何でもいいから社員のプライドをへし折り、「こうあらねばならない!」と社訓的なものを何百編も復唱させたり、 キャパ以上の仕事を与えて失敗させることで自信を喪失させ、自分の頭で考える余裕や時間を与えず、行動を完全に支配下に置いて、 なんでも言うことを聞くようにしていくやり方です。 外務省にも似たような「新人研修制度」があったそうでw、急に資料作成の仕事を指示され、徹夜でやっと資料を作成して 上司に提出したところ、「上の方針が変わったから、それは破棄するように」とすぐシュレッダーにかけるよう指示された、 と作家の佐藤優氏が書いてましたねw 「はたしてあれは、『大人』の集まった組織だったのか?」ともw 以前、4年半ほどブラック企業に在籍したと書きましたが、幸いこういった「洗脳」され「同調」を強要されるブラックではなくw、 ルート営業なのに3ヶ月連続で昨年実績を割ったらクビとかw、全体売り上げの「日計」が累計で昨年実績を下回ったら、 営業部が数字をクリアするまで社員全員「連帯責任」で退社出来ないとか(私らは、会社が従業員を人質に取って立てこもる様からw、 「まあた『人質作戦』が始まったど~」と言ってましたがw)、「部長3年説」とかw(営業部長が3年続いた試しがなくw、 大体経営者とケンカして辞めるか、クビになるか、または営業部長本人の知らない間に別の営業部長が任命されているというw)、 まあ「無邪気」というかw「素直」で分かりやすいブラックでしたねw あまりの立場の不安定さに、ある営業マンが「今度結婚致しますので、退職させて頂きます」と「寿退社」したこともありましたw 男が「寿退社」するのを見たのはw、50年の人生で1回っきりですw 誰がいつクビになるか分からないのでw、営業が20人以上いながら妙な派閥もあまりなくw、風通しもそこそこよくw、 その辺理解出来てる営業マン達とは自然と「戦友」的な連帯感が育まれ、何かあったら情報共有して「共通の敵」と対峙してましたねw 数字が悪い月の営業会議では、呑気な顔をしているとw、「戦友」の上司への風当たりが強くなることもあるかとw、 とりあえずはしおらしい顔してw座ってましたw 辞めて10年近く経ちますが、在職中仲の良かったメンバー方とは、今でも忘年会や暑気払い等で年数回は集まっています。 「戦友」の繋がりって、なんか続くんですね~w この会社に在籍していた期間を含め、都城には約10年住んで、地元の温かい人達と交流させて頂き、至って居心地が良かったんですが、 よく分からないところも正直ありまして・・・・w 職場で同僚たちと話していて、どんな内容だったかは忘れましたが、冗談で「そんなこと言ってたら、チェスト~ッ!って示現流で 斬られない?」と言ったところ、辺りを見回した上司から真顔で「変なこと言うな!」と小声でたしなめられたことがあり・・・・w 表には決して出てこない、よそ者には分からない未知のアンダーグラウンド組織がw、まだこの辺りにはあったりするの・・・・? と少し背筋が寒くなりw また、「持って回った」言い方が、日常的に多用されている感もあり・・・・w もしかしたら、「持って回った」言い方が出来ること=「頭が良い」こと、と勘違いしている人が多いのかも、と・・・・w 難しいことをそのまんま難しく言うのはw、丸呑みしたものを吐き出すだけですから結構簡単なことでw、 難しいことを自分の頭で咀嚼して、どう分かりやすく伝えられるか、表現出来るかに、「頭の良さ」や「人間性」、 場合によってはその人の「責任感」まで顕れると思うんですが・・・・w 後、「権威権力に滅法弱い」人が、なんだか多い印象もあり・・・・w ま、「同調」して「弱いフリ」をしてるだけなのかもしれませんがw、なんで日常的に「弱いフリ」してなきゃいけないのかw、 よく分からないという・・・・w 用事があって訪れた役所のある課では、女性職員が窓口に来ていた老婦人を叱り飛ばしていて、 なんかすごいな・・・・と思って見ていたらw、視線に気付いたその女性職員に睨まれた記憶もあり・・・・w 未だに「官」が偉い地域なのかな・・・・?と感じましたw 市民にサービスする行政「サービス」機関ではなく、市民を統治する行政「統治」機関か・・・・?とw ま、300年以上もガッチガチのヒエラルキーで固まっていた地域ならでは、でしょうか・・・・。 江戸時代の諸藩では、武士層が全人口に占める割合は5~6%ぐらいでしたが、旧薩摩藩では武士層が約26%もいたそうで、 今でも「ウチは武士の家系だ!」と胸を張る人に出くわしやすい地域ですw この武士層の中で、城下士(鹿児島衆中。城下町に居住する武士)は約11%だったそうで、人口全体でいうと約2.8%になり、 残りの約89%、全体の約23.2%は郷士(外城衆中。地頭所居住)、家中士(私領居住)として外城(麓)の農村地域に 配置されていました。 「チェスト!関ケ原!」で、徳川幕府に対する常時臨戦態勢だったんでしょうが、74%の百姓・町人を 23%の郷士が「統治」する社会でもあった訳ですね。農村に4人いるうちの1人は、「支配・統治する側」だったとw 八公二民(収穫した米の8割が年貢)の旧薩摩藩内で、ほとんど越訴や一揆、逃散の記録がなく、 庄内の伊集院氏等の「武士の反乱」しかなかったのは、このせいだといわれています。 江戸時代には諸藩で一般的だった「寺請け制度」は、旧薩摩藩内では機能しておらず、代わりに郷士層がキリスト教や 一向宗(浄土真宗)等の禁教の取り締まりを行い、百姓の生殺与奪の権利を全て握っていたといわれています。 一向宗は、中世には自治都市の「寺内町」を組織し、「加賀は百姓の国」と言われたように「国」自体を運営したりしていましたので、 その自治志向、一揆が警戒されたようです。 浄土真宗の信者達は、隠密で遠く日向の串間まで坊主の話を聞きに行っていたそうで、都城のあちこちに今でも 「隠れ念仏」の跡が見られます。 霧島山麓の「カヤカベ教」のように、アンダーグラウンドで代々念仏を受け継ぎ、独自の教義を持つに至った宗派もあります。 明治の廃仏毀釈運動で、江戸時代まで続いてきた諸寺院のほとんど全てが破壊し尽くされたのは、この「寺請け制度」がなかったから、 という見方もあります。武士層だけでなく、一般庶民の一部も一緒になって破壊してたそうですから。 今ある寺院のほとんどは、廃仏毀釈運動への国内からの反発、欧米諸国のキリスト教教会からの批判等で見直しの動きが起き、 それ以降に旧薩摩藩内へ布教した「新興勢力」や、元々あった寺を再興したものだそうで。 また、戊辰戦争以降、旧薩摩藩内では「武士層内部の下剋上」が起こった、といわれています。 江戸から明治になり、行政組織内では倒幕に慎重だった門閥勢力(旧上層城下士)から、武力倒幕を主導した下級城下士に権力が移行し、 地租改正では旧郷士層の多くが地主となり、また県議会の議席の大半を占めていきました。 明治22年4月の市制・町村制の施行では旧郷がそのまま行政単位に移行し、町村役場はほとんど旧麓地区(外城の中心地域)に置かれ、 その地域行政は上層の郷士層が担いましたので、地域内の行政実態と人間関係は江戸時代のままだったようです。 この地域の行政と人間関係に大きな変化があったのは、太平洋戦争後の憲法改正、民主諸改革の断行、なかでも農地改革でした。 藩政時代の武士による支配が、制度的に変遷しても太平洋戦争後まで続いていましたが、二次にわたる農地改革の結果、 小作地率は35.6%から9.2%に減少し、ようやく旧士族層と旧平民層の社会的平等化がはかられた、ようです。 (中村明蔵著「薩摩 民衆支配の構造 現代民衆意識の基層を探る」南方新社、他) 百姓の挙動にも目を光らせていた「外城制度」が、何となく残っているかのような印象を受けるのはw、 これらの歴史を知ってるせいかもしれませんが・・・・w 前記の会社を退職後、「当面、サラリーマンはいいや」とFXをやっていたところ、「3.11」東日本大震災が起こり、 それに絡んで「カジノ資本主義」の「投資家」の一人、ミセス・ワタナベの類でいることにホトホト嫌気がさす出来事があり、 最低ライン「人の役に立つ」ことで飯が食いたいと、「社会復帰」することを決めました。 「社会復帰」しようと、都城で営業の求人面接を片っ端から受けたところ、片っ端から落ちまくりw、 ブラブラしてる訳にもいかんと、県外の会社の現地契約社員となり、そのうちに妻が転勤になったので門川に引っ越しました。 契約期間も終わり、県北の地元で仕事を探すことになりましたが、県北は都城よりも営業の求人件数自体が少なかったので、 営業以外の仕事もある程度覚悟しながら、とりあえず1社面接を受けたところ、同じ週に2次面接、週明けに採用となりました。 その時は、丁度タイミングが良かったのかな~と思っていましたが、今になって考えてみると、都城に住んでいた時に在籍した会社は、 社長がある程度以上の期間東京で働かれていた経験と、また直接社長面接で採用になったという共通項があり・・・・。 そこで気付いたのが、「文化コード」ですw チャキチャキの地元、旧薩摩藩育ちの人事担当者の「文化コード」の基準では、ハネられてしまう経歴だったのかw または面接時、面接担当者の「文化コード」的には受け入れられないw、表情や態度、言動があったのかも・・・・とw そう言えば、一度だけですが面接で「普通のやり方では業績が伸びそうもない、あなたはイリーガルな手段が取れるか?」 と聞かれたことがありましたねw 笑顔で、「無理ですね」とお答えしましたw あんまり他所のことばかり書いているとw、「不公平」かもしれませんねw 都城の人から、たまに「宮崎(市内)の人間は、冷てがね~」と言われることがありますw 宮崎市中心部は、宮崎県庁が出来てから135年しか経ってない、至って歴史のない町で(大淀川右岸の城ケ崎地域は 赤江港が近く商人の町として栄え、俳句等の町人文化も発達していました)、橘通に並ぶ商店は四国出身の人が多い、 と聞いたことがあります。 ある意味「よそ者が集まって出来た町」ですから、良くいえばゴリゴリの「文化コード」がなくwオープンな感じ、 悪くいえば歴史の無さからくる「軽さ」や、「同じ境遇」を背負う等の「連帯感」が薄い地域、でもあるのかな、と。 「百姓遺産」でも触れましたが、宮崎県は江戸時代には諸藩分立していて、西南戦争以後の鹿児島県庁の施政のおかげ?wで、 宮崎県として分県した経緯があり、各藩それぞれ歴史が違い、言葉も違い、風習も違うことを大前提に、小異を捨てて大同に就こうと、 まとまってきた感じなんでしょうね。 「高鍋で学問の話をするな」「都農でケンカの話をするな」w等のフレーズがあり、高千穂には古い夜神楽があり、 椎葉には稲作農耕民とは別の祭祀儀礼があり、また徳川幕府に抵抗した歴史もあり、西米良には南朝の武将・菊池氏があり、 海岸沿いには伊予の河野水軍との密接な繋がりがあり、県北には確実にw海賊の末裔があり・・・・。 誰かが強権で「支配統治」しようとしていたらw、レジスタンスや山岳ゲリラ、海賊だらけになってたかもしれませんな~w 宮崎に住んでいると、何らかの「文化コード」を強く感じる旧薩摩藩地域との比較で、色々と相対化しやすいという 「地の利」があるようにも感じますw 「近代国民国家」政府も、実はこんな感じでやってたんじゃないか・・・・という想像も働きやすく・・・・。 私の場合、九州他県の先輩達から何故か「宮崎の人間だよな~」と言われることが多いんですがw、 高校時代、シベリアの強制収容所に捕虜として抑留された人の体験を読んで、 収容所で一番先に精神的に参ってしまったのは、顔色を読んでおべっかを使うタイプの人間だった、 と知ったことが、その後の人生に大きく影響しているような気もしますw
by syotikure
| 2018-02-03 18:34
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