「百姓遺産」


ある人から、今の中学校の授業では「士農工商」の身分制度は教えてない(「武士・町人・百姓」に分け、「町人」と「百姓」の間に上下は無く、
あくまで居住地域での分類)、ということを聞き、面白そうだったので色々と本を読んでみると、私が中学・高校時代の頃とは隔世の感があり・・・・(笑。

私の父は教科書に墨を塗った世代で、墨を塗る前の歴史の授業は「その時、大楠公は~」だったそうで、
「戦後復員してきた先生で『飛鳥時代』を『ひちょうじだい』と教えた人がいて、後になって訂正されたことがある」
と言ってました(笑。
そこまで劇的な変化ではないにしろ(笑、近世史の研究は今までの「常識」を覆しながら進んでいるようです。


e0071319_22565564.jpg「江戸時代は『鎖国』していて、人口の8割9割が『百姓(農民)』の農業国『瑞穂の国』だった。それを『御一新』で明治政府が欧米列強に対抗できるように工業化し、『脱亜入欧』させた」
という通説、実は明治政府のプロパガンダの影響が強いようです。
太平洋戦争の敗戦の責任を、徳川幕府の「鎖国」政策におっ被せた、和辻哲郎著「鎖国 日本の悲劇」の影響も大きいようで(笑。

いわゆる「鎖国」は、貿易窓口を徳川幕府に1本化した「貿易統制」に過ぎず(「抜け荷」《密貿易》で稼いでいた藩もあったようですが 笑)、宣教師を尖兵とした植民地主義国との摩擦を避け(豊臣秀吉がキリスト教を禁じたのは、信者が教会に土地を寄進し始めた事への危機感からでした)、金銀の国外流出を減らす為に諸々の商品(陶磁器や「嶋」《縞》に代表される織物、砂糖他)を国産化していった「保護貿易」、と見てもいいようです。

実際の「百姓」人口内の比率も、農業メインで食っていたのは多くても4~5割ぐらいで、商人(卸・販売)や職人(多種多様な技術者)、
海洋民(漁業・製塩業・回漕業)、今でいう運輸・サービス業(飛脚・駕籠かき・馬子・旅籠・茶屋他)などが占める割合も多かったようで、
また地域によっては稲作よりも商品作物(蚕用の桑や綿花など)の栽培の方が多かった、という例もあります。

幕末期は、当時の欧米諸国と比較しても非常に識字率が高く(県によって相当な差はあるが、
18世紀末から寺子屋や私塾が各地に激増した為、かなりの比率の「町人」「百姓」が読み書き出来た)、
安定の中で家内制手工業が発達して職人達の技術も高くなり、市場経済や流通システムも発達していて
(既に中世には世界で最初の信用為替制度が出来ていて、江戸時代の「経済用語」は今でも使われている)、
また全国共通の公用語(日本流の漢文書き下し、文語)が普及していて、正確な情報伝達が出来たことなどが、
明治以降の急速な工業化の基盤になっていました。

オランダの東インド会社等から海外の情報は入ってきてましたので、要は、イギリスに産業革命をもたらした蒸気機関(動力)や、
細菌学などの「現物」が無かっただけだった、と。
幕末期、現物を見ただけで蒸気機関の可動模型をこさえた人がいたぐらいですから(笑、知識と技術レベルは相当高かったようです。


田中圭一著「村からみた日本史」によると、江戸時代の「百姓」には、元々の単語の意味(一般庶民)のままに
縮(ちぢみ)を織る技術者、宿屋の経営者、酒造家、宮大工や左官などの職人が含まれていたが、
儒教(朱子学)の農本主義の支配者層には「農間稼ぎ」「農閑期の出稼ぎ」としか見えなかった、見ようとしなかった、ようです。
特定産物以外は無税だったこともありますが、残っている「百姓」の経営台帳を調べると、
どっちが「本業」か「副業」か判らない例が多々あるようで・・・・。
今でいえば、「家庭菜園」などである程度「自給自足」しているサラリーマンまで「百姓」(農民)に入れた、というところでしょうか(笑。

米どころ・越後で、「百姓」が高く売れる商品を作って、市場で売っていた一例です。

天保4年「塩沢組五八ヶ村、他方出入金調書上帳」
収入 縮代(縮織りの反物を売った代金)  11,000両
   宿料(塩沢、湯沢などの宿場の宿賃)  1,300両
   出し米(米を売った代金)         612両
   絹糸                   510両

「それにしても、百姓の経営台帳を実際に見たことのある学者が、今までにどれだけいたのか」
と著者は呆れています。
越後では、公式帳簿「検地帳」の倍以上の収穫があり、それに約36%の年貢が課せられていたので、
結果実質の年貢(税率)は約18%だったそうで。
現在のサラリーマンと比べると、これが重い年貢(税金)と言えるのかどうか・・・・(笑。

また、収穫した米は地主と小作人で折半していた例が多く、年貢は地主が払っていたので、昔教科書で習ったような、
「生かさず殺さず」搾取された、食うや食わずの小作人の姿は、飢饉などの非常時を除いてはあり得なかった、と。
そう思わせていた「百姓」側がしたたかだった、ということになりますか(笑。

e0071319_0272681.jpg網野善彦著「古文書返却の旅」では、能登・輪島の旧家から発見された手習いの手本(子供の字の練習見本)で、飢饉で困窮した時の訴状が文章例になっていたと紹介されています。
手本には年号が書いてあり、その年には飢饉の記録がなかったので「手本」だと分かったそうで、きちっと史料批判をしていかないと研究者も騙される、と書かれていました(笑。

また、能登のような「半島」は、陸上交通が盛んな時代(近代以降)は「陸の孤島」「交通の便が悪い所」と見られがちですが、海上交通が盛んな時代(近世以前)には大きな港が栄えていた所があり、輪島もその一つだそうです。
江戸期の「公的」区分では、江戸や京都、大阪、その他の城下「町」以外は、どんなに賑わっていても「村」扱いで、農地を持たない、否持つ必要のない「(無高の)水呑百姓」達が、商業や海運業で財を成していたことが史料で確認されています。

時に「百姓」は、「越訴(えっそ、おっそ)」「一揆」「逃散(ちょうさん)」という手段を取っていました。
現場の役人の横暴や約定違反があれば、直接「責任者」に訴え出て(越訴)、
それでも埒があかなければ、集団抗議(一揆)や逃亡(逃散)を行いました。

宮崎県内でも、元島原藩主有馬直純の嫡子・清澄が転封されて支配していた県(あがた)藩領臼杵郡山陰(やまげ)村・坪谷村で、
元禄3年(1690年)代官の理不尽さに憤った農民1400人余りが逃散一揆をおこして高鍋藩領に逃げ込み、
両藩の交渉・説得に農民達が納得しないまま時が過ぎ、約10ヶ月後幕府が直接裁断を下し、
逃散の中心的メンバー20数名が処罰されましたが、残りの農民達はお咎め無しで帰ることが出来、
有馬氏は越後国(新潟県)糸魚川に飛ばされました。

その後、県藩は延岡藩と改称され譜代大名が治めるようになり、また色んな意味(交通の要衝等)で主要な県内23ヶ村が
天領(幕府直轄地)となり、延岡・高鍋・佐土原・飫肥・薩摩各藩の間をぬって点在することになりました。

私の実家がある清武町(現宮崎市)にも、この「山陰逃散一揆」の影響で天領になった地域があります。
その後、一時期薩摩筋の支配になったようですが、支配から外れた後(多分、宮崎県が分県した時)、
再度名字の「元」の字を「本」の字に戻した「百姓」がいたとか・・・・(笑。
それにしても、沖縄でもそうですが、強権で名字を変えさせるというのは、何なんでしょうかね(笑。

ま、Wikipedia を見てみると、宮崎県が鹿児島県から「分県」した理由は、
「西南戦争後、鹿児島県が薩摩・大隈の復興を優先したことへの反感」と
「鹿児島県による宮崎支庁への支出が、徴収される地方税よりも少ないという悲憤」があったようで、
沖縄に対するのと同じような「帝国主義」に、それまで諸藩分立で一体感のなかった日向国の善男善女「芋がらぼくと」「日向かぼちゃ」達が、
「共通の敵」を見出して一致団結したもののようで(笑。
ちなみに、宮崎県の分県運動で中心的な役割を果たしたのは、清武町出身の川越進という人だったそうです。
余計な話になりましたが(笑、こういう「地域史」もなかなかに面白く・・・・(笑。


色々と読んで気付いたことは、私らが習ってきた「江戸時代」は、「お触書」という「公文書」を中心に検証していて、
講談師の語る百姓一揆の「義民物語」や、E・H・ノーマン著「日本における近代国家の成立」(1940年執筆、1953年日本で刊行)
などの影響も、かなり受けていたということで・・・・。
「お触書」も貴重な史料には違いないんですが、「百姓」(一般民衆)の史料も同時に見ていかないと、
どうやって「百姓」が生きていたか、本当の姿が見えてきません。
「お触書」(政策)が出たから世の中が動いたのではなく、「百姓」「町人」が動いたから世の中が動いて対症療法的に「お触書」が出た、
ということを見落としてしまいます。
また、「権力」があったから「社会」が存在したのではなく、「社会」があったからある一定の条件の元に「権力」が存在し得た、
という見方も抜けてしまいます。
この辺り、同じ「権力」に何百年も支配されてきた地域の人達には、なかなかピンとこないかもしれませんが・・・・(笑。


e0071319_044975.jpg天領と諸藩領では年貢も違い(天領は四公六民~五公五民、諸藩の中には八公二民!もあった)、年貢が重く厳しい生活を強いられても一揆や逃散が起こらなかった藩があれば(「郷士」という士分の支配者層が農村に常駐し監視していた等)、比較的裕福でも一揆や「百姓の流失」(出稼ぎや海民の移動等)が起こった藩もあり、寺子屋が100以上あった藩もあればひとケタしかなかった藩もあって、一括りに「江戸時代はこうだった」とは言い切れない多様さがあります。


そこで、それぞれの「地域史」が重要になってきます。

各地域の「百姓」史料が研究されれば、政治状況(天領、諸藩領)や生活環境(漁村、山村、農村、城下町、港町、宿場町他)ごとの、「百姓」達の様々な暮らしぶりや豊かな繋がり、築いてきた「文化的遺産」も見えてくると思います。

渡辺京二著「逝きし世の面影」では、幕末期に江戸を訪れた欧米人達の残した記録から、
とにかく闊達で冗談を言ってはよく笑い、人への気遣い・思い遣りも備えた、機嫌のいい民衆が多かったことが紹介されています。
その理由として、貧乏でも物価が安いのでとりあえず食えて、働き手のいない世帯(独居老人や障害者、寡婦)には相互扶助が働き、
身分や立場の差はあっても「所詮は同じ人間」という平等感・信頼感があったからではないか、と。
当時の、工業化した欧米各国の都市部では既に見られていた、劣悪で不潔な環境に住み、過酷な労働の疲弊から来る「無気力」と、
数少ない「娯楽」(酒とSEX)に耽る「退廃」に陥った貧困層は見当たらなかったそうで。
「貧乏はあっても貧困はない」社会だったと。
ほとんどの人々が「地域」や「職業」に属していて、「分断され孤立した個人」はごく少なかった、ということでしょうか。

また、何故百万都市・江戸は、現在から見れば考えられない程少数の与力・同心(と岡っ引き)だけで治安が保てたか、
それは地域社会・組織が、軽微な犯罪・紛争は自分達で処理・解決する「慣習」があったので
「お上の手を煩わさなかった」、逆に言えば「介入させなかった」からだと。

江戸の町には、来日した外国人が「買い物熱に浮かされてしまう」と嘆くほど、
熟練した技術とセンスを感じさせる商品を売る店々(桶屋、籠屋、瀬戸物屋、小間物屋、骨董屋、他)が並び、
庶民の生活必需品を売る店々(古着屋、八百屋、魚屋、下駄屋、草鞋屋、酒屋、他)が軒を連ね、
大道芸人達が辻に立ち、文字焼屋や飴屋に子供が群がり、盲目の按摩が笛を吹きながら杖をついて歩き、
また多種多様な行商人達が道を行きかっていたようです。
中には「羅宇屋(らうや)」といって、煙管(きせる)の掃除や修理の専門もいたそうで、
それでそこそこ食えたというのもすごいところです(笑。
当時の他の国の都市とは比較にならないほど、多種多様で豊かな町の様子を、「雑多と充溢」と表現した外国人がいたそうで・・・・。


前掲の「村からみた日本史」のあとがきに、
「中央集権的な『国家史観』では、常に過去の政治権力を否定的に見るだけで、『悪いのは過去の支配者』と現支配者は取り繕い、
民衆は常に被害者面して歴史の担い手としての責任を負わない」
という意味のことが書かれていました。
「歴史」に対する「無責任」が、江戸期に「全国津々浦々」「百姓・町人(一般民衆)」が築いた「豊かな文化や偉業」を知ろうとも、
意味を理解しようともせず、明治維新以来の欧米諸国への劣等感、その反動としての「傲慢さ」に繋がっている、と。
紙芝居や講談もどきの「英雄史観」を、鵜呑みにしてしまう脆さ、にも繋がっているように思えます・・・・。

サッカー日本代表の前監督であるイビチャ・オシム氏は以前、
「日本の選手は、誰も責任を取ろうとはしない」
とインタビューで語っていましたが(笑、日本の「無責任」は植木等から始まったんじゃないですよ(笑、
100年以上の年季が入ってるんですよ、と教えたら、オシム氏は何と言うでしょうか・・・・(笑。


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by syotikure | 2010-06-26 00:48 | 趣味(その他) | Trackback | Comments(0)
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